ウチナーグチはなぜ消えた?
ウチナーグチとは琉球諸語のなかの一つで、他にも沖縄方言・沖縄語・琉球語など、呼ばれ方は様々あります。その対象は沖縄本島の言葉(本島内でも地域によって差異があります)。
ウチナーグチは「方言か独立した言語か」の論争があり、日本政府はウチナーグチを方言とみなしていますが、標準語との差異はイタリア語とフランス語くらい違うと例えられるほど、また、沖縄は日本本土とは違う歴史を歩んできたことから「日本語族に類する独立した言語」と考える学者もいるそうです。
ウチナーグチの祖語は日本本土の古語であり、その分岐点は約1,000年前(諸説あり)、それから独自に進化・発展した言葉です。
高齢化により話者数は年々減り続け、ユネスコ(国連教育科学文化機関)では「消滅の危機に瀕する言語」として指定されています。
ウチナーグチがなぜ消えたか?という結論は最後の方にありますので、「結論だけ知りたい!」という方はスクロールして飛ばしてください。
沖縄について何も知らない
僕は沖縄に生まれ育った沖縄人ですが「沖縄について何も知らない」ということを知ったのは、だいぶ後のことです。
話が180度変わりますが『パラサイト 半地下の家族』という映画を見たでしょうか?
本作はアカデミー賞と映画界の最高賞、カンヌ国際映画祭のパルムドールを同時受賞しています。一時期話題にもなったと思います。
僕は最近DVDをレンタルして見ました。
・・・本当に驚きました。
世界中で賞賛されているのも納得です。
この映画は韓国で作られた超韓国的な映画です。
国が違えば言葉が違いますし、法律や常識も違います。
日本人が当たり前と思っていることも、アメリカ人からしたら衝撃を受けるでしょうし、ノルウェー海に浮かぶアイスランドの住人にしてもそうでしょう。
自分の周りにある当たり前は当たり前ではないという当たり前なことを痛切に感じさせ、色々と考えさせられるような映画でした。
映画を通してではありますが、それは韓国という「外の世界」に触れたからこそ感じるものです。
ウチナーグチへの関心
沖縄と本土はどうでしょうか?
一見、同じようで似ているようで「全然違う」ということを僕は過去、強烈に感じたことがありました。
それから沖縄について強い関心を抱くようになりました。
体が勝手に動き出すみたいに、沖縄への興味・好奇心があふれて止まりませんでした。
沖縄の文化や歴史に触れると、至るところにウチナーグチが息づいていました。
沖縄が沖縄たるゆえんはウチナーグチにある、そう確信した僕は、ウチナーグチを勉強したい、ウチナーグチで喋りたいと思いました。
YouTubeで検索していると、白人がウチナーグチで喋っている!?
なんでもその方はオランダの言語学者で、消滅の危機に瀕する言語を勉強しており、その動画ではおススメのウチナーグチ勉強本を紹介していました。
僕は県内で一番大きいであろう本屋さんに行き、『実践うちなあぐち教本』というハードカバーの分厚い本を買いました。
ウチナーグチを勉強していました。
しかし、ウチナーグチを使う機会はほぼありませんでした。
なぜなら、ウチナーグチを喋る人が周りにいなかったからです(笑)。
ウチナーグチは消滅の危機に瀕する言語です。
職業などにもよりますが、使われている場は本当に限定的。
なんでウチナーグチは消えたのか?
疑問でした。
ウチナーグチは生きていた
僕はウチナーグチが消えた理由について、最初、皇民化教育などの「方言札」が関係していると思いました。
方言札について詳しく書かれているので気になる方は読んでみてください。
僕がリサーチした結果では、方言札はあくまで教育・学校内でのことであり、外や裏ではウチナーグチを子供たちは普通に使っていたし、方言札でウチナーグチが消えることは決してありませんでした。
戦前はもちろん、戦中・戦後もウチナーグチは生きていたのです。
言語統制とはいえ、方言札は激甘政策。本当にウチナーグチを撲滅しようとすれば、もっと残酷なことをしたでしょう。
被差別の象徴であることから方言札はたまに地元メディアが放送しているのを目にすることがありますし、方言札の認知度は高いと思います。
しかし、ウチナーグチが消えた本当の理由や背景が放送されているのを僕は見たことがありません。僕が見たことがないだけかもしれませんが、その認知度はかなり低いのではないかな?と思います。
沖縄戦と山之口貘
1945年4月1日朝、アメリカ軍は守備の薄い本島中西部で上陸。
戦艦10隻・巡洋艦9隻・駆逐艦23隻・砲艇177隻が援護射撃をし、直径127mm以上の砲弾44825発・ロケット弾33,000発・迫撃砲弾22,500発が撃ち込まれ、「鉄の暴風」とも呼ばれる沖縄戦が始まりました。
日本軍・民間・アメリカ軍ともに多数の戦死者・戦傷者が出たのはもちろん、独自の歴史を歩んできた沖縄の貴重な文化財も闇に葬られました。
ところで現在、那覇市与儀公園には『生活の柄』を作詞したことで有名な沖縄出身の詩人、山之口獏の詩碑が建っています。
作品『弾を浴びた島』のなかで、沖縄へ帰郷したときの何とも言えない哀愁漂う詩が僕は好きです。
島の土を踏んだとたんに
ガンジューイとあいさつしたところ
はいおかげさまで元気ですとか言って
島の人は日本語できたのだ
郷愁はいささか戸惑いしてしまって
ウチナーグチマディン ムル
イクサニ サッタルバスイと言うと
島の人は苦笑したのだが
沖縄語は上手ですねと来たのだ
ガンジューイ(元気?)
ウチナーグチマディン ムル イクサニ サッタルバスイ
(ウチナーグチまでも全部、戦争でやられたのか)
ちなみに、ウチナーグチが消えた理由は沖縄戦もある意味関係してはいるのですが、沖縄戦自体によるものではありません。
佐渡山豊という男
佐渡山豊は1973年エレックレコードから『ドゥチュイムニィ』という曲を出しています。
ドウチュイムニィ(独り言)
前半の歌詞(一部標準語訳)で、こう歌っています。
ウチナーグチはとてもいいものだよ
少し英語に似てるけれど
どこの国にもない言葉
皆で大事に残していこうぜ!
日本語よりも新鮮なウチナーグチを使おうよ
(抜粋)
若き日の佐渡山豊、イケメン。しかも仁義。
僕はこの歌が好きで何回聞いたか分かりません。
聞いているうちに、「なんで佐渡山豊はこんな歌詞にしたんだろう・・・」と疑問に思い、この曲が出された時代の背景を思い浮かべました。
なぜ佐渡山豊は「ウチナーグチを使おうよ」と声を大にして叫ばなければならなかったのか、ということを考えると、この曲はとてつもないロックンロールであると気づいたのです。
その頃の沖縄というのは一体どんな状態だったのでしょうか。
アメリカ統治下時代に高まる日本志向
1949年東西冷戦が激化すると、朝鮮半島の軍事的緊張が高まります。
アメリカは極東地域戦略のため、沖縄に大規模な軍事基地や施設を建設しました。
沖縄は極東最大の米軍基地へと変わり、アメリカからは「太平洋の要石 」と称されるほどです。
アメリカ統治下時代の沖縄人というのは日本の法律が適用されないばかりか、アメリカの法律も適用されず、どこにも守られるところがない、非常にか弱い存在だったといいます。
軍事施設を作る際にアメリカ軍は、強引に土地を接収したとされています。
住民はこの様子を「銃剣とブルドーザーによる土地接収」として例え、アメリカ軍の強権の代名詞となりました。
サンフランシスコ条約締結以降、軍政府は沖縄の本土復帰を唱える運動を弾圧。
1959年の宮森小学校米軍(ジェット)機墜落事故は、幼い子供達が生きたまま燃え、凄惨な事件となりました。
また、日本は戦争を終結していますが、アメリカは戦争をし続けていました。
特に沖縄と関係があったのはベトナム戦争です。
沖縄は事実上、出撃基地の拠点となり、当時のベトナムからは「悪魔の島」と恐れられたそうです。
戦争が激化すると米軍兵による事件が相次ぎました。
以前からあった反米感情もさらに高まり、ピンと張った糸が切れるようにコザ暴動が起こります。
その一方、日本本土は朝鮮戦争の特需景気を皮切りに高度経済成長期を迎えます。
本土が戦争から復興し輝かしく発展していく姿、その象徴でもある1964年の東京オリンピックは当時の沖縄人の目にどう映ったのでしょう。
翌年の1965年、元首相佐藤栄作が来沖した際、「沖縄が日本に復帰しない限り、戦後は終わらない」という旨の発言。
『沖縄を返せ※』と本土は甘い言葉をかけてきます。
※作詞作曲:労働組合の全司法福岡高裁支部、荒木栄が行進曲風に作曲したものが後、全国に広がる
アメリカと日本、両国の思惑はどうであれ、沖縄は1972年5月15日ついに本土復帰を果たします。
ウチナーグチはなぜ消えた?
アメリカ統治下のなかで、沖縄人は「日本に復帰したい」という意識を強くしました。
外圧ではなく沖縄人の意識が変わることによってウチナーグチは今に至ります。
それは例えば、
「日本に復帰しよう」
「ウチナーグチは昔の言葉だ」
「俺達は日本人だ、ウチナーグチなんて使うな」
という意識・同調圧力が高まり、沖縄人自らウチナーグチを蔑視する反面、標準語励行を徹底して行ったこと、それによりある年代から下の若い層にウチナーグチが引き継がれなくなったのです。
つまり、ウチナーグチは沖縄人が自ら選択し捨てたもの、これがウチナーグチが消えた本当の理由です。
言葉が引き継がれなくなると、ウチナーグチを話せる世代同士で使われることがあっても、話せない世代に対し意思疎通の言葉として使われることは少なく、手のひらを返したように標準語を使ったといいます。ウチナーグチで話しても伝わらないということを体験的に強く自覚していたからです。
こうした世代間の言葉の断絶もまた、話者数の減少に大きく手を貸しました。
僕が小さい頃は今よりも、おじいおばあがよくウチナーグチで話しているのを聞いていた気がします。
何を言っているのかは全然理解できませんでしたが、今になってそういう風景を見ると、どこかホッと安心するところがあります。
そんな風景もいつまで見られるのかと思うと、少し憂鬱です。
ウチナーグチはこのままだと確実に消えてなくなるでしょう。
それが良いことなのか悪いことなのかはよくわかりません。
沖縄は今日も蒸し暑く、生暖かい風が吹いています。
最後に
かなりセンシティブなテーマで書いたと思いますが、僕はこれを「ウチナーグチはなぜ消えた?」というある種のエンタメとして楽しんでもらえたらありがたいです。
そして僕は、アメリカ統治下時代にはまだ生まれていません。
本土復帰時、親は小学生くらいで「なんか、日本に復帰したらすぐに日本円になったね~」と聞いたことはあるのですが、そういった話はなぜかあまりしません。
このテーマに対して僕は情熱を持っていて、いつか書きたいと思っていました。
沖縄に強い関心を抱いていた時期というのは、実のところ、内面的な空虚さを自分が帰属する属性・アイデンティティで埋めようとしていた部分があったからだと思います。
自己満足かもしれませんが、これを書くことでその頃の自分に対して、なにか区切りのようなものができる気がしています。
この記事はnkが書きました。
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